シェムリアップ アンコールワット アンコールトム
サイゴン メコン川 マジェスティック・ホテル など カンボジア と ベトナム1.はじめに 気候の厳しい国への旅行は若いうちに限るでしょう。 年1回陶芸仲間と陶芸研修旅行に出かけていますが、メンバー全員が古稀前 後なので、若いうちに(!)行ける所へ行っておきたいと思っています。 そんな訳で、今年は酷暑のカンボジアで遺跡観光をすることにしました。 オプションでベトナム観光を追加しました。 ベトナムで陶芸の窯元見学をする案も出ましたが、恒例の陶芸研修というの は看板倒れに近いことを承知しているせいか、窯元見学を除外することに異 を唱える者はいませんでした。 したがって、今回は陶芸研修なしの(自称)陶芸研修旅行です。 2.カンボジア 飛行機はベトナム航空でした。 機内サービスは、かつての日本の航空会社のように、私共のようなエコノミ ークラスの貧乏人も満足させてくれました。 乗務員はすらりとしたアオザイ姿で、優雅な仕草で微笑んでくれました。 たしか、アオザイは体型に合わせて個別に仕立てるので、娘を育てるベトナ ムの母親は娘の体型管理にとても厳しい、と聞いたことがあります。 それにしても、アオザイは背伸びをした時などに脇腹の一部が露出するよう に切り込みを入れた、誠に憂うべきデザインであります。サイゴンで乗り継ぎ、カンボジアの北 西部にあるシェムリアップ空港に夕方着 きました。 空港の建物は、寺院かと思われるよう な外観でした。 ←シェムリアップ空港 2.1 アンコールワット、アンコールトム カンボジアにある多数の遺跡の中で、最も有名なものはアンコール遺跡群 でしょう。とりわけ、アンコールワットとアンコールトムが有名です。 アンコールワットは東西1.5キロ、南北1.3キロ、アンコールトムは 東西、南北共に3キロという広大な規模が群を抜いています。
そこでまずは上空から眺めて みることにします。 ヘリコプターをチャーターして みました。 (...ウソ) ←北西方向に見下ろしたアンコー ルワット 右上方にアンコール トム (ウィキペディア: 「アンコール遺跡群」より) 寺院であるアンコールワットは11世紀前半、王城であるアンコールトム は12世紀後半に築かれたそうです。
←アンコールワット 江戸時代には、アンコールワットを訪れた日本人がインドの祇園精舎と勘 違いしたそうです。 彼らは訪問の記念として、柱に墨書の落書きを残したようです。 江戸時代の鎖国令が出される前の寛永9年(1632年)、森本右近太夫と いう人の落書き跡が柱に残っています。
←森本右近太夫の落書き跡(黒い部分) ↓寺院の外に広がる樹海
アンコールワット全体は石で造られています。 石は北東にあるクレーン山で切り出し、シェムリアップ川を筏で運んだよう です。 中央の塔を囲むように3つの回廊があります。 一番高い位置の第三回廊は、地上から30メートル位の高さだと思われます。 第三回廊へは、60度近い急な階段を這うようにして上ります。
←第三回廊への登り階段を見上げる ↓第三回廊から第二回廊を見下ろす
私がアンコールワットで最も期待していたのは、第一回廊の壁画でした。 第一回廊には、全長1.5キロにわたって浮き彫りの壁画が残されています。 王位を巡る戦闘の図、天国と地獄図、アンコールワットの建立者であるスー ルヤヴァルマン二世を巡る絵巻物風物語、神々と阿修羅の綱引きで表される 乳海攪拌、..など。 ところが! 第一回廊は修復中のため、なんと今回は見学できませんでした(涙々!!) アンコールトムは、東西南北各3キロが高い塀で囲まれ、それぞれの中央 に門があります。門は小型バスがかろうじて通過できる広さです。 アンコールトムに入る車両は、来年からは電気自動車に限られるそうです。
←南門 ↓王城中央にあるバイヨン廟
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←四面仏 ↓クメールの微笑み
2.2 崩壊する遺跡 熱帯地方の遺跡の最大の破壊者は、樹木のようです。 発見された当時のまま残されているというタ・ブローム寺院をみると、その 凄まじさに圧倒されます。
←回廊を包み込むガジュマル(榕樹) ↓
アンコールトムからおよそ50キロ位東に、ベンメリア遺跡があります。 この遺跡は、崩壊したまま残されています。 アニメ「天空の城ラピュタ」のモデルになった、と言われているようです。
←正門前 ↓崩れ落ちている彫刻
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←ガジュマルと崩壊した石 ↓
シェムリアップからの往復では、乗馬の訓練みたいな経験をしました。 道路は舗装されていたのですが、小型バスが上下に激しく揺れたため、前の 椅子につかまって腰を浮かせないと大変でした。 2.3 南国の風景 11月から4月までの半年は乾季、5月から10月までの半年は雨季だそ うです。2月末の冬の日本とは暑さが比べ物になりません。 丸3日間で10ヵ所以上の遺跡を見学しましたが、日中は35度以上の炎 天下で1年分以上の汗を搾り出しました。
←沸き立つ雲(しかし雨は降らない) ↓赤土の大地
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←気さくに応対する若い僧 ↓観光客を運ぶ象
アンコール王朝が栄えた時代、それを支えたのは農作物だったようです。 農作物をもたらせる灌漑設備が整っていったようですが、王朝の崩壊に伴っ て失われたまま現在に至っています。 稲を刈り取った後の水田では、乾季には枯れて焼けた平原として広がって います。サイゴン(ベトナム)のメコン川流域のように、二毛作、三毛作が できる国ではないことが、国力の違いの原因にもなっているのでしょう。
←枯れた水田 ↓高床式民家
シェムリアップは遺跡観光で発展している町ですが、少し郊外に行くと電 気の引かれていない民家が多いようです。各民家の軒先には、水甕とおぼし き大きな甕が置かれていました。飲料水は共同井戸に頼っているようです。 2.4 余録:アユタヤ遺跡 アンコール王朝は9世紀から興り、12−13世紀に絶頂期を迎え、15 世紀初めに滅びました。1431年、アンコール王朝を滅ぼしたのは、シャ ム(タイ)のアユタヤ軍でした。山田長政がアユタヤ王室の日本人傭兵隊長 を務めたのは1620年代でした。 そのアユタヤ王朝は、ビルマ軍の侵略を受け、18世紀に滅亡しました。
アユタヤ遺跡を4年前(2005 年11月)に見学したことがありま すので、少しだけ写真を載せてみま す。 アユタヤ遺跡では煉瓦ばかりが目 に入りました。
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3.ベトナム カンボジアで遺跡見学をした後、オプションとして一日だけサイゴン見物 をしました。夕方にサイゴンへ入り、翌日丸一日見学し、その日の深夜に日 本へ飛立つという束の間の訪問でした。 なお、サイゴンの市名はホーチミン市と改められていますが、多くの人は 相変わらずサイゴンと呼んでいるそうです。ちなみに、サイゴン中央郵便局 の案内コーナーでもらった観光案内地図には「Saigon Travel Map」 と記さ れていました。 3.1 交通事情 サイゴンへ入ったとき、まず驚いたのは道路にひしめく物凄い数のバイク でした。人口600万人以上の大都市なのに、地下鉄などの公共交通機関が 整っていないため、バイクが活躍しているようです。道路一杯にひしめき合 いながら、車間距離1メートル位でスピードをあげて走っています。バック ミラーは単なる装飾品で、誰も後ろを確認せずに右へ左へと進路変更します。 ここの交通ルールは「前だけを見て前進すること」だそうです。
ホテルにチェックインして近くの レストランへ食事に出かけ、道路を 渡るときに唖然としました。 なんと歩行者用の信号がないのです。 歩行者は自動車とバイクの移動に合 わせて道路を横切ります。 ←夜のバイクの群れ*(以下*印は 友人Aさん撮影) ↓昼のバイクの群れ(バスから)
信号のない所ではどうするか。ひしめきながら走ってくる車やバイクを気 にしないで悠然と歩けばよいのです。人も車もバイクも、全員が前だけに注 意して進めば事故にはならない、という明快な原理を信奉しているようです。 しかしこれで事故が起きないのは不思議で、事故はかなり多いそうです。 3.2 旧大統領官邸など 最初に見学したのは、統一会堂と呼ばれている旧南ベトナム大統領官邸で した。この建物はベトナム戦争たけなわの1966年に建設されたそうです。
1975年4月30日朝、押し寄 せた北ベトナム軍の戦車が正門のフ ェンスを破って兵士が庭になだれ込 み、南ベトナムという国が消滅しま した。 ←旧大統領府 ↓前庭*
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ベトナムは60年近くフランスの植民地 とされました。 そのため、フランス風建築物が残っていま す。 ←サイゴン大教会 ↓中央郵便局
3.3 メコン川 メコン川はチベットに源流を発し、中国、ミャンマー、タイ、ラオス、カ ンボジアを経てベトナムから南シナ海に注ぐ、4,000キロメートル以上 もある大河です。 サイゴン中心部の北西50キロ位の位置にあるメコン川ツアーに参加しま した。私はベトナム戦争時代に設けられたトンネル見学に興味がありました が、今回初めて同行することになった女性の体型などを考え、楽なコースに しました。(ちなみに、戦争時代のトンネルは痩せたベトナム人の体型に合 わせて作られ、大柄のアメリカ人は通り抜けるのが困難だったようです)
遠くに見えるのが対岸と 思いきや、目的地の中洲で した。 中洲といっても多くの民 家やココナッツ飴工場など があります。 ←大型貨物船などが行き交う メコン川 川風に吹かれながら、椰子の葉で葺いた屋根の下で美味しいベトナム料理 を堪能しました。ちょっとだけジャングル散策も楽しみました。
←聳え立つ椰子の木* ↓ニッパ椰子に囲まれた水路
3.4 マジェスティック・ホテル 今から35年前、1975年のことです。 この年の4月30日、北ベトナム軍(ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族 戦線軍)によって南ベトナム国(ベトナム共和国)が崩壊する様子を目撃し た日本人記者がいました。 当時サンケイ新聞の特派員としてサイゴンに赴任していた近藤紘一さんで す。サイゴン陥落の前後、近藤さんは大統領官邸に近い日本大使館に籠って いました。近藤さんは占拠された直後の大統領官邸周辺の様子を目撃してい ます。 およそ1ヶ月後に日本へ帰国した近藤さんは、サイゴン陥落前後の状況を 記し、「サイゴンのいちばん長い日」という本を出版しました。
←1975年当時の地図 (「サイゴンのいちばん長い日」 より) ↓ホーチミン日本国総領事館
旧日本大使館■は旧大統領官邸▲の南東約1.5キロの位置にありました。 現在、旧日本大使館は「ホーチミン日本国総領事館」となっています。ここ から一区画離れた至近距離にマジェスティックホテル●があります。 (なお、サイゴン駅は2キロほど北西に移転しています) ベトナム戦争の時代、日本から来たジャーナリストの多くがマジェスティ ックホテルに滞在しました。例えば、開高健さんは「ベトナム戦記」にこの ホテルに宿泊した時のことを記しており、ホテルのバーには開高さんの写真 が飾られているそうです。
このホテルはベトナムで最初の五つ星ホテルだ そうです。 ←日本ホテルと呼ばれた1940年当時の写真 (正面入り口の横に掲示されている) ↓最上階のレストランから見たサイゴン川
このホテルのレストランから、サイゴン川越しに椰子畑を眺めた様子を近 藤紘一さんは何度も描写しています。北ベトナム軍がサイゴンを包囲して陥 落が時間の問題となったときは、彼方から伝わってくる砲声をこのレストラ ンで聞いたそうです。 近藤さんは34歳でサイゴン陥落を見届け、45歳で亡くなりました。 私たちは最上階のレストランで休憩しました。 マジェスティックホテルのここで、目の前を流れるサイゴン川を眺めながら 煙草をくゆらすことが、今回のベトナム見物で私が最も望んでいたことでし た。 4.おわりに カンボジアでは、衝撃的な場面に出会いました。 それは、裸足で近寄ってくる物売りの子供たち、ゴミ箱を回ってペットボト ルを集めている若い母と幼児、道端に一人で座っている少女、地雷で手足を 失った人たちが奏でる演奏風景..などでした。 私はカメラを向けることが出来ませんでしたが、ずっと記憶に残ることで しょう。 飲み水の確保に苦労する酷暑の地は、私には耐えられない環境です。 そのような自然環境に加え、健康保険や年金などの社会システムが整ってい ない国に住むことは、現代の日本人、とりわけ年寄りには耐え難いことです。 年金で暮らしながら、どうでもいい陶器を焼いたり海外旅行に出かけたり して楽しむことが出来るのは、日本という国の力があってこそなのだ、とい う思いをあらためて強くしました。 (散策:2010年2月25日〜3月1日) (脱稿:2010年3月30日) ----------------------------------------------------------------- この稿のトップへ エッセイメニューへ トップページへ